ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

いっしょに棲もう

 「同棲」「愛の巣」の「棲」や「巣」のあたりに、どうぶつじみたものを感じます。どこかみっともなくてかわいいやつらです。ちいさなものたちが、なまなましく、懸命に息をつくさまをとらえた語であるように思われます。ただし、答え合わせをしてみないから、その実際は未知数です。熱病たる恋を解剖して取り出したことばなのだと決め込んでいます。当人たちは大真面目でも、はたから見ると気恥ずかしかったり滑稽に映ったりするのが世の常だから、おたがいさまとして患者どうし許しあってゆきたいところです。

 暮らしのなかに優雅なひとときをもつのは望ましいことだけれど、どの瞬間もひとしく優雅な暮らしというのはどこにもありません。人のいのちは優雅なものたりえないからです。お手洗いは水洗式で、食肉はパック詰めされたものがスーパーで手に入り、生まれ死ぬところが家庭から病院に移ったいまでも、ごはんにしたりおふろにしたりをくりかえすうちに、靴底は減り、排水口はぬめり、シーツに毛玉ができます。

 「愛はフォトジェニックだ。」というキャッチコピーがほんとうなら私は愛を知りません。とけそうに笑っている顔はファインダーなど隔てずにおさめたいのです。

あたためますか?

 おかずしかり、こころしかり、ゆっくりあたためたものほど冷めにくいと決まっています。これは起伏に乏しいわが人生から導いた経験則です。電子レンジから取り出したおみそしるには、すぐに部屋のさびしい温度がうつってしまいます。「冷めないうちにどうぞ」というやさしさに応えられず、猫舌かつ食べるのがきわめて遅い私はときどきせつなくなります。猫舌とはいえ熱いのは好きなのです。たったひとくちぶんに、これでもかとじれったく息を吹きかけるのを、ずっとやっていたいくらいです。

 あたたかさというのは性質ではなくて状態なのだと、路傍にて、食べるのが遅いせいで耳たぶほどまで冷ましてしまった肉まんが教えてくれました。「あったか〜い」のボタンに囲まれたはちみつレモンもミルクティーも、かりそめなのです。あれらも、あったかいうちに飲みきれたためしがありません。

 私の指先はいつも冷たいからはじめから冷たいものとしてあるように思われます。そうでないことはわかっても、いつでもかたくなに冷たいのです。あったかいと驚かれるほどです。もちろん、あたためればきちんとあたたまります。ゆっくりあたためましょう。

下の名前で呼んで

 面接で「貴校」という呼称を用いないようにと、最近は教わるのだそうです。「ちゃんと学校の名前呼んでほしいみたいですよ」と受験生が教えてくれました。「呼んでほしいみたい」という言い回しがくすぐったく気に入っています。

 志望校の名を一度も口にしないまま、私は前期選抜とやらをくぐりぬけました。受け答えに脚色は不可欠です。あのとき「それって、うちじゃなくてもいいでしょ?」と切り返されたなら、「自転車で通えるのはここだけなのです」と白状するほかにありませんでした。「貴校」相手には歯の浮くような台詞も吐けます。小さいころから散歩がてら眺めていたA高校そのものと向かい合った感じが希薄になるのです。ほかの子の名前を口走るという過ちを犯しえないから、「貴校」と呼ぶのは気安いものでした。「こねこちゃん」みたいな発想です。あちらも、私が過剰にはきはきと名乗ったところで呼びはしなかったのだから、おたがいさまでよかったと思っています。

 高校受験はお茶を濁してすませたけれど、私の前にはまだ見ぬ「御社」が立ちはだかっているのでした。それとも名前で呼ばれるほうがお好きでしょうか。

自分探さない

 自分の書いたものが他人のことばのように受け止められるのというのはありふれた現象だけれど、それにしてもこれには驚かされた、と拾い上げた紙きれの文字をしみじみ読み直してから、住所の印刷されたダイレクトメールより入念にちぎって捨てました。「私はレズビアンなのでしょうか?」と、たしかにそれは私の筆跡でした。書きことばだけ敬体になる癖もそのままです。

 そういえば中学生のころ、家族で旅行した夜に、みんなが寝静まってからいろいろ考えたのでした。覚えているのはそれだけで、ほかには、どこに連れて行ってもらったときのことなのかも、なにを考えたかのかも忘れてしまいました。

 忘れてしまっても、書かれたものは残っています。これこそが書くことの効能です。離れたところからあらためて眺めなおせることと、かたちにして残せること。あのときの私は、書いて落ち着いたから記憶にひっかかっていることが少なく、書いてもわからないままだったからメモを持ち帰ったのでしょう。いまとなっては、お出かけに悩みは置いて行けばよかったのにとだけ思います。だいじな答えは旅よりふだんの暮らしのなかに求めるものだ、と二十歳を過ぎた私から教えてあげたいな。

続・夏休みの宿題

 寝坊して急いで来たのがばれないように、息を整えて教室に入り、ドアがまた開かれるのを待つも、先生がお見えになりません。今週の研究班は、急遽お休みになったのでした。手帳に書かれていないことが起こるのは、このくらいなら歓迎します。雨に降られたり慌てて駅に引き返したりした散歩のほうが、振り返ってみるとおもしろくて気が利いているように思うのと同じことです。盛大に鳴るおなかを押さえながらおしゃべりをして帰ってきただけの午後に、どこかよく生きた感触が残っています。

 先輩と、あとからいらした先生とのあいだで、卒論と修論の2語が何度も行き交います。余裕をもって卒業論文を書き上げた人も、書き上げたものに満足している人もいないと先生がくりかえしました。宿題をやり残したような気持ちがあって、まだ勉強したいと思った人が院に行くのだともおっしゃいました。私はあきらかに宿題が終わりそうにない人間です。それがわかったとき、これからすることがいくつも思い浮かんできました。自分はこれがやりたかったんだとか、やっぱりこの人が好きだとか、なにげないやりとりのなかでふと確かめただけのことこそ、どうやらほんとうらしいのです。