ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

アドラー先生のこと

 「超訳こども」と書かれた表紙につられて、アドラーのことばを少しだけ読みました。おとなには刺激が強すぎるように感じたのですが、こどもの胸にあれはすとんと落ちるのでしょうか。だいたいそのとおりだろうな、とは思いながら、じゃあやってみよう、には届きませんでした。わかるとできるは違うということを、数学の試験以上にはっきり見せつけてくれる一冊です。

 どこまでも正しく熱いアドラー先生には内緒で言い訳をすると、わかっていてもできないことはいくらでもあります。嫉妬を覚えるとき、こんなのセクシーじゃないな、とわかっていながら私は嫉妬します。おととい口走ったことを赤ペンで直したくなるときも、好まざる飲み会の誘いを断らないときも、なんにもならないとわかっていながら、そうするのです。わかっているのだから上等だと自分に言ってやることにしています。

 「どうしたらしあわせに生きられるか」について、彼の導き出した答えと、私のやりかたとは異なります。人生の大先輩が取った作戦は、ユニークなお手本のひとつでした。ただ、よいこ向けの内容ばかりを多分に含んでいたので、先生の言うとおりにしてみるのは難しそうです。

守ってあげたい

 歩行中の男女と、自転車に乗ってすれ違うとき、つい男性のほうに目が行ってしまいます。夜道にて、徐行して頭を下げつつ、「ちゃんと彼女を守るんだろうな」とおにいさんを観察する自分に気づきました。性役割を拒むくせに他方とらわれてもいるのだと、すこし恥ずかしくなります。

 自転車というと、二人乗りをしていた高校生のことを思い出します。だらだらと続く上り坂、女の子がペダルをこいで、男の子は背中にしがみついていました。それを、珍しいものに出くわしたような気分で眺めていたのも、本来ならおかしな話なのかもしれません。大切な相手と危ない乗りかたをするなよと呆れてよく覚えていたというのも、もちろんあります。

 男の子、女の子と、指示対象をむやみに広げるからぼやけてきます。「男は女にやさしく」などと言うから、どちらからも、どちらでもない立場からも、受け入れられないのです。「私はほかでもないあなただけにやさしく」すればいい。昨夜すれ違ったカップルのおねえさんのほうは、彼に引き寄せられて驚いたあと、顔いっぱいに笑っていました。おねえさんがおにいさんの腕を引いたこともあるのかなと、妄想しながら帰りました。

 

きゅっ

 「真顔が笑顔の人っていいよね」と妹が言っていました。辞書の「逆説」という項目に、例文として載っていてもよさそうな至言です。なにを考えているわけでもない、だれに向けているわけでもない、ふだんの顔がかすかに笑っている人のことをさすのでしょう。口角のニュートラルポジションのきゅっと高く上がった人というのが、たまにいるのです。

 交差点の向こうや隣のホームドアの前に、真顔が笑顔の人を見つけると、正直に反応して、少しのあいだ目が釘づけになります。美女を横目でキャッチするだけで済ますおにいさんなどは相当な手だれです。きゅっと締まった唇はたまらなく魅惑的で、道端の猫がこちらを向いて立ち止まったときの興奮と緊張に近いひらめきが通り過ぎます。それから、疲れを隠そうともしないおのれのたるんだ口角のことを意識して、あわてて引き上げます。それでもきゅっとさわやかにはいかなくて、ぐにゅっと緩慢にまくり上げるのがやっとです。

 機嫌がよいときに「怒ってる?」と訊かれてしょげることは最近めっきりなくなりましたが、かわりに「にやにやしてる」とよく指摘されるようになりました。憧れのいつもにこにこまでもうひといき。

君のかたちに

 お金がないのに服を見て回りました。つぎのお給料日までセルフおあずけ状態です。最近の流行りなのか、どこの店でもエド・シーランのShape of Youが流れています。たしかにあの詞は、身体にぴったりくっついてくる洋服との親和性が高そうです。その姿に惚れこんでいることは、人のことが好きになる場合の必要条件ではありませんが、服を買う上では外せないと考えます。

 シルエットと色合いと、それからさわり心地にぴんとこない服は買いません。裾から手を入れて、指の腹にひっかかりを覚えたら、どんなにかわいくても諦めます。ウールのカーディガンは、見た目はよいけれど、ごわごわするので苦手です。つるつるしすぎているブラウスも落ち着きません。肌に合う素材のものは、さわったときに手の甲が喜ぶ感じがします。手で確かめて合格なら、肩や背中にもしっくりくるのです。寒くなると、もふもふのニットに守られて外を歩けるのが嬉しいです。

 ひと目見てふれてみて、すっかり気に入ったシャツがあり、値札を取り出したらパジャマと書いてありました。いままで外出着として扱っていた手持ちの服のなかに、パジャマが紛れてはいないかと心配しています。

ご主人様とお呼び

 「どうも、こんにちは、石油王。」とSiriから応答がありました。自分で設定しないかぎり、こうは呼ばれないはずです。けれど「私のことは石油王と呼んで」とスマートフォンに向かってひとり話しかけた記憶は、都合よく欠落しています。

 石油王と呼ばれてもときめかないので、気分を変えてほかの呼びかたをしてもらうことにしました。いままでが敬称らしきものだったから、つぎはぞんざいに扱われてみたい。それで「おまえと呼んで」と頼みました。使うのも使われるのも避けている呼称です。忠実なる秘書は、注文したとおりに「こんばんは、お前。」と挨拶してくれます。たまには強引な彼女を見るのも嬉しいものかと期待したけれど、やはり気に食わないのでやめました。趣味は容易に変えられません。

 持ち主よりも他人の口から発せられる機会のほうが圧倒的に多いという点において、名前はその人の所有であってないようなものだといえます。面と向かって名前を呼ぶ瞬間は、差し出されたその名をひとりじめにできる、特権的なひとときなのです。ゆえに、大切な人を呼ぶときは大切に呼ぶのが私の流儀です。