ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

知らないくせに

 ろくに知りもしない女によく熱を上げられるな、とおのれを冷ややかに眺めたのち、よく知らないから手放しで礼讃するのだと気づき、気づいてもなお私は壇蜜が大好きなのでした。ただ壇蜜が好きなのであって、齋藤支靜加さんを愛してはいないのです。フリーに憧れているけれど、マイケル・ピーター・バルザリーさんのことはなにも知らないのと同じです。

 知りたがりの子どもでした。週刊誌の三文小説を開いて、読めない漢字があると祖母にたずねていました。「淫ら」の読みだけは教えてもらえませんでした。はぐらかされるからよけいに気になって、活字のかたちが頭にこびりついたものでした。わからないことばは、欲深い子どもにとっては甘くも苛立たしい距離にある獲物です。こっそりと電子辞書を引いてみたけれど、意味はわからずじまいでした。数年が経ち、なんとなくわかるようになったころ、秘密を発いた悔恨とともに、知らされないことは強いて知りたがらないことを覚えました。

 たいして知らないのがちょうどよいときも、物足りないときもあります。知るほどもっと知りたくなる人を見つけてしまったなら、目を離してはいけません。

寸止め

 花粉症がひどく、ポケットティッシュが1日に1パックずつなくなります。どういうわけかくしゃみは出ません。出そうになって、不発に終わることがしょっちゅうです。眠るときのほかは絶えずむずむずしています。間抜けにゆがんだ顔をマスクの下に隠しながら大真面目に相槌を打ってみせると、せつなくもなります。

 くしゃみ衝動の半分以上はくしゃみに昇華されないと生徒に話すと、「もっと自分を解放したほうがいいっすよ」と叱られました。我慢してはいないんだ、こちらとしてはいつ来てもかまわないのに来ないんだと言い張りつつ、小気味よいくしゃみをうらやましく聞きました。

 全身を這って増幅するむずむずにまいっています。アレルギーからくるものに限りません。講義を受け、本を読み、そそのかすような刺激を受けてはむずむずしています。よく書かれたものに出くわせば書きたくなってくる性癖が、おのれの首を絞めます。よく書かれたものほど、書きたい気持ちをかき立て、同時に、うまく書けない私を黙らせてしまうのです。出そうで出ないものは堆積して喉につまって、かえって出づらくなっていきます。くしゃみしたい。

ああもう、愛してるよ

 もういちど仲のよい夫婦に戻りたいのなら、「疲れた」のかわりに「愛してる」と言おう、といつかのバラエティ番組が教えてくれました。当時、小学生か中学生だった私はそのめちゃくちゃなアドバイスに衝撃を受け、疲れたと口にしないことをおのれに誓いました。なにしろ「疲れた」をめぐるイメージ映像が強烈だったのです。ため息の応酬、表情をなくしたふたり、冷え切ったリビングルーム。幼心に「疲れた」は禁句として刻み込まれました。

 それからしばらく、他人の「疲れた」にも過敏になっていました。「暑い」「眠い」も「うらやましい」も聞きたくありませんでした。振り返れば、愚痴をこぼす友達より、よほど窮屈で不健康だったのは私のほうです。弱ったところをさらけ出してくれるのを喜ぶようになったのは、ごく最近のことかもしれません。

 「疲れた」も「愛してる」も言いたいときに言えばよいと、いまはそう考えます。互いにためらいなく心を裸にできるのがいちばんだと思うのです。心のパンツという比喩を思いつき得意になっていたのですが、検索したところ用例がいくつもあって、悔しくも仲間を見つけて愉快だったことをさっき思い出しました。

アドラー先生のこと

 「超訳こども」と書かれた表紙につられて、アドラーのことばを少しだけ読みました。おとなには刺激が強すぎるように感じたのですが、こどもの胸にあれはすとんと落ちるのでしょうか。だいたいそのとおりだろうな、とは思いながら、じゃあやってみよう、には届きませんでした。わかるとできるは違うということを、数学の試験以上にはっきり見せつけてくれる一冊です。

 どこまでも正しく熱いアドラー先生には内緒で言い訳をすると、わかっていてもできないことはいくらでもあります。嫉妬を覚えるとき、こんなのセクシーじゃないな、とわかっていながら私は嫉妬します。おととい口走ったことを赤ペンで直したくなるときも、好まざる飲み会の誘いを断らないときも、なんにもならないとわかっていながら、そうするのです。わかっているのだから上等だと自分に言ってやることにしています。

 「どうしたらしあわせに生きられるか」について、彼の導き出した答えと、私のやりかたとは異なります。人生の大先輩が取った作戦は、ユニークなお手本のひとつでした。ただ、よいこ向けの内容ばかりを多分に含んでいたので、先生の言うとおりにしてみるのは難しそうです。

守ってあげたい

 歩行中の男女と、自転車に乗ってすれ違うとき、つい男性のほうに目が行ってしまいます。夜道にて、徐行して頭を下げつつ、「ちゃんと彼女を守るんだろうな」とおにいさんを観察する自分に気づきました。性役割を拒むくせに他方とらわれてもいるのだと、すこし恥ずかしくなります。

 自転車というと、二人乗りをしていた高校生のことを思い出します。だらだらと続く上り坂、女の子がペダルをこいで、男の子は背中にしがみついていました。それを、珍しいものに出くわしたような気分で眺めていたのも、本来ならおかしな話なのかもしれません。大切な相手と危ない乗りかたをするなよと呆れてよく覚えていたというのも、もちろんあります。

 男の子、女の子と、指示対象をむやみに広げるからぼやけてきます。「男は女にやさしく」などと言うから、どちらからも、どちらでもない立場からも、受け入れられないのです。「私はほかでもないあなただけにやさしく」すればいい。昨夜すれ違ったカップルのおねえさんのほうは、彼に引き寄せられて驚いたあと、顔いっぱいに笑っていました。おねえさんがおにいさんの腕を引いたこともあるのかなと、妄想しながら帰りました。