ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

官能ジャズ

 ピアノの先生にジャズのワルツを聴いていただいたところ、「若いね」「色気がない」「それじゃマーチよ」とさんざんほんとうのことをおっしゃって笑われ、真実を言われて傷つかねばならないほどの、おのれの腕前に傷つきました。

 数日後、近所のCDショップで『官能ジャズ』というオムニバスを借りました。エロスに教科書を求める発想それ自体にちっとも色気がないのですが、その点には思い至らなかったのです。チェット・ベイカーを聴くようになった以外には、新たな発見はありませんでした。他のアルバムに比べ、とりわけ官能を刺激されるようにも感じません。そのおかげで、重大なことを思い出しました。官能的なジャズという言い回しは同語反復にすぎず、ジャズが官能的であることは自明なのだと。官能的でなければジャズでないのだから、私が弾いていたのはジャズではなかったのです。

 好みど真ん中のハスキーボイスに思考力を奪われながら、もうジャズはやらないと投げやりに思いました。それでも聴いているとまた弾きたくなってしまうから、ふしぎです。

夏のせい

 夏のせいでしょうか。期末レポートが残っています。靴下に穴が開きます。自転車のそこらじゅうががたついています。私のせいでしょうか。

 われわれが、短気、軽はずみ、無気力、ふしだらであるのを、すべて自分のせいにされることに対し、夏は怒りをあらわにしてしかるべきです。夏を歌った歌における夏の不当な扱いは、目に余るものがあります。すっぽかした約束も、身の程知らずの恋も夏のせいにするおじさんを知っています。

 一方、なにもかもを夏のせいにする話法は、すぐれていると認めざるをえません。だれにもどうしようもないものを使うところがずるい。酔いのせいにするより、しかたないねと言いやすそうです。かぎりあるものを使うところもずるい。夏が終わったらおしまいだよ、というわけです。終わって、必ずまた来るというところまで完璧。年ごとに「あの夏」が厚い層をなしてゆき、痛みと恥は相対的に薄れます。はじめに夏のせいと言い出したのは、間違いなくずるい大人です。

 手にしたそれなりに輝かしい現在を、ひと夏に収斂させたくありませんから、夏のせいに私はしないのです。

思い出す事など

 きわめていじけやすい性向ゆえ、一部の、昔の人を歌う歌を受けつけません。いつか誰かとまた恋に落ちても、のいつかの誰かにはなりたくない。「そいつを忘れたらおいで」と拗ねてしまいます。かといって、忘れさせてやる気概もない。五代くんと響子さんのゆくえも、苦しくていまだ見届けられずにいます。

 友達のなにげない「高校生に戻りたい」にまで、ざわついてしまいます。いまここに私といるのではいけないのかと、やはり拗ねます。そういうことではないと、頭ではわかっているのに。

 たとえば「91年のアルバムは最高傑作だった」と、昔話をすることは私にもあります。そのちっぽけな感慨は、だれにもなんの打撃も与えません。それなのに、他人の素朴な感慨に、私のほうは打ちのめされる。いるはずのない相手に張り合おうとするこの心持が、理にかなっていないことも、得をしないこともわかっています。

 少しは物わかりをよくしたく、「くどい」にはじまる台詞を吐くラオウをロック画面に設定したことがありました。とくに効き目はなく、現在は内田理央のうしろ姿に落ち着いています。

たつた一つの表情をせよ

 「笑顔が一番」とはよく言ったものだけれど、これは根拠に乏しいと考えます。呆れている天海祐希も、誇らしげな吉瀬美智子も、無表情な松嶋菜々子も、生意気を言う米倉涼子も、神妙にしている仲間由紀恵も、呆けた顔の壇蜜も、怒り狂う柴咲コウも、泣き叫ぶ尾野真千子も、くたびれた満島ひかりも、それぞれに美しいのですから。

 容貌に恵まれた女優さんに限らず、笑っていなくても、かわいいときはかわいいし、かわいくないときも見ていたい、そんな人はいます。アルバムのなかでいばる小さな妹にも、見どころはあります。国語の先生には唇を尖らせる癖があって、思わず真似をしないように気をつけていました。顔を汗でぐしゃぐしゃにして歌う友達は、まぶしかったです。

 笑わないエレベーターガールはいません。笑顔はだれのものであろうとすてきです。では寝顔はどうでしょう。上述の美女たちはいざ知らず、ふつう、間が抜けていて、人様に差し出せたものではないはずです。それでも、あるいはそれでこそ、のぞきたい寝顔というのもあります。そう思ったら、おそらくその思いは本物です。

いつか王子様に

 お姫様よりは王子様になりたい子どもでした。一緒に暮らすなら、相手は可憐なお姫様のほうがよかったのです。それに、王子様を待っているお姫様になるのはいやでした。迎えに来てもらうより、こちらから行きたかったのです。

 守られるとか、抱かれるとか、ふたりのあいだに生じる行為において、いつも同じひとりに受身の助動詞を付することは、私にとってしあわせでもきまりごとでもありません。自在にひっくり返せるようでないと、おたがいに息が詰まってしまうでしょう。テレビドラマに出てくる父親などが口にする「食べさせる」にも、引っかかりを覚えます。ひとりでごはんを食べられるだけの力をつけたうえで、だれかとふたりになりたい。

 王子様になれないことはもう、というよりはじめから、わかっています。それでもいいやと思い切るまでには、長くかかりました。いま「男らしい」「女らしい」のどちらを言われようと、よい気も悪い気もしません。ただ「あなたらしい」と言われたときには、なにか愉快です。意外なときに言われるほど、胸のすく思いがします。