ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

祭りのあと

 ひさしぶりに降り立った小さな駅は、夏祭りが終わったばかりだというのに、つつがなく平日の夜を運行していました。過去の日付を記したポスターや、散乱するごみが見当たらないのは好ましいことです。

 祭りにも引き際の美学はあります。街も人も、名残惜しそうにしないことです。次の朝には、なにもなかったみたいにすましていることです。今夜の駅前は、それをよく心得ていました。鼻緒のかたちをした擦り傷を革靴やパンプスに隠して、前の晩のような高揚感を含まない人いきれにむせながら、みな同じ道を早足で行きます。

 かく言う私は、浴衣を脱ぎ捨ててから丸二日近くを、自室のフローリングに寝そべって過ごしました。たたみじわだらけになったパンフレットを指先で伸ばして、においをかいでみたけれど、大学にもバイト先にもある紙とインクでした。りんご飴の包みを留めていた針金を、折り曲げてみたりもしました。仕事をなくした針金は、手ごたえなくぐにゅぐにゅと小さくなります。そいつを捨てに立ち上がるのも気だるく、ごみ箱に投げ入れようとして外しました。やはりさびしいものはさびしいのです。

より上へ

 思春期が終わりに向かう道筋は、上限を志向しなくなる過程でもありました。できるかぎり速く弾こうと躍起になることは、もうできません。もとを取ろうと、一皿になるべくたくさん盛りつけようとするのもやめました。それらはいかにも少年らしい、あまりに素朴な美意識でした。

 常にめいっぱいがんばることがすばらしいと、われわれが思わなくなったとしても、世の中のほうは強い一直線の志向をいつまでも有しているようです。よくばりでせっかちなのです。それで路面電車や夜行列車はいまにも消えそうになっています。

 電化製品は、世の中が最先端へと突っ走るエネルギーをかたちにしたものです。1ヶ月のアルバイトで、ノートパソコンが買える時代になりました。本体も動作もあっけないほど軽いです。98年製のiMacが、幼稚園児には持ち上げられないくらい重かったのを思い出しました。困ったことに、キーボードとタッチパッドの感触も、きわめて軽いです。勢い余って「お大岡昇平ノッビのエッピグラフうう」などと打ってしまうので、レポートがなかなか進みませんでした。感度もまた、高ければ高いほど快いわけではないのでしょう。

 夏休みの宿題をぎりぎりになって片づける子どもは、そのまま、徹夜でレポートを書く大学生になります。ノートパソコンの画面と対峙し、窓の外が白みはじめるのを椅子の上で見届けることになると予期しながら、この感じははじめてじゃない、と懐かしさをおぼえました。

 読書感想文の推敲に1週間を費やすような偏執狂じみた中学生は、そのまま、ことばにねちっこいまなざしを注ぐ文学部生になります。性癖は治りませんから、解放できるところで過ごしています。

 いいものが書けたとまれに思うときには、たとえば、書かれた4000字の背後に、書かれなかった20000字や30000字が必ずあります。ノートの見開きいっぱいに散らかった青インクであったり、ためらいののち、バックスペースキーにさらわれた明朝体であったり、そのかたちはさまざまです。頭のなかで繰り返された「なぜ?」のように、かたちのないこともあります。

 反故になった、書かれなかったことばが募るほど、書かれた文章はおもしろくなります。ことばの上では、思いきり捨てる贅沢をしたいのです。

37℃

 熱がありそうなら、測らないことです。ほんとうにつらいときと、すぐに休めるときは別です。熱があるかもしれないけれど、ないかもしれないし、まだがんばりたい、というときは、検温をしないことにしています。熱があるとわかった途端に、自分は具合が悪いのだと身体が決め込んでしまうためです。

 熱があれば学校を休んでも許されるような気がして、37℃に達するまで水銀体温計の目盛を見つめていた14歳の朝がありました。母は「行きたくない」と言えばなにも訊かずに休ませてくれました。ただ私が、行きたくないというだけで行かないのはいけないことだと、決めつけていたのです。結局、その日は遅刻もせず登校しました。なんということはありませんでした。

 熱があって頭の冴えていることや、熱はなく気分のすぐれないことは、いくらでもあります。知ってなお、あの眼鏡より小さい器具が示す数字を私は恐れます。行きたくないことは行かない理由たりうると考える現在、見たくないのは高熱のほうです。「おまえは疲れているんだ」「もう寝ろ」「明日は出かけるな。約束を断れ」という言いつけのように思われてしかたありません。

アイスミルク・ラクトアイス

 食べるのが遅いと、棒アイスを買って屋外で開けるにも覚悟が必要です。牛乳と砂糖を固めましたと言わんばかりの、ひたすら白くて甘いのをよく買うのですが、ガリガリ君をはじめとする氷菓より溶けるのが早いような気がします。食べ切るまえに必ず垂れてきます。食べるのが遅いくせに、溶けやすいのを好むからいけません。

 夢中になって話すうち、熱い日射しで溶けてしまったというなら、垂れ落ちたアイスも浮かばれるかもしれませんが、そのような絵になる言い訳は立たないのです。3月の肌寒い日にもホームランバーをこぼしましたし、ひとり無言で食べても地面にしずくを落とします。棒アイス適性に欠けるのでしょうか。

 私がみっともなく手の甲まで汚している横で、「あずきバーは固いから」と悠然たる態度を崩さぬ策士もいました。あずきバー氷菓に分類されます。私はあずきバーもその他のあらゆる氷菓も欲していないのです。濃厚なミルク感に、べたべたに甘やかされたい。その渇望が、何度でも手を汚させます。何度食べても相変わらず汚すのだから、かえって器用なのではないかと思いはじめています。